ある日N本に担当台に呼ばれた。
2区に務める従弟から来た手紙の内容についてどう思うかと問われた。
いちいち来た手紙まで見るなと言いたい。
内容は「看守に嫌がらせや虐めを受けたので娑婆で仕返しをする」というものだった。私は、
「やられたら、やり返す、仕方のないことやと思いますが」
と答えた。さらに、たっぷりと嫌みを込めて、言ってやった
「嫌がらせや虐めは指導とは別ですから、娑婆で殴られたらええんと違いますか。
従弟は娑婆でスッポンのケンジと呼ばれて無茶苦茶しつこいんですわ」
と箔をつけてやった。本当はスッポンに食い付かれるキャラだ。
私はN本の耳元に口を寄せ小声で、
「実はワシも約1名おるんですわ」
と言ってやった。
「えー」
と言って目を丸くする。N本が恐る恐る聞いてくる。
「誰や?」
「それは言えませんわ」
と勿体付ける。
「そこまで言うたんやから教えてよ」
と少し可愛子ぶる。
N本のデコに人差し指を突き立ててやろうかと思うが我慢する。
私が刑務所に入所して3ヶ月が経過した頃の話だ。
毎年4月は工場の、交代担当、助務、助務交代が変わる季節だ。

代わった看守の中にI田という看守がいた。
I田はエースコックと呼ばれ、嫌がらせの名人ですぐに
受刑者を取り調べに上げることで有名だった。
私は配役されてからすぐ体育委員をした。
その関係で午後からの休憩前に食堂に掲示してある
予定表を翌日のものに変更するという雑用の担当をしていた。
工場長の許可をもらって食堂に入り、
翌日の予定に変えていた時にI田が入ってきた。
「お前何、勝手に食堂に入っとんじゃオラ」
といきなりケンカ腰で文句を言ってきた。
私は許可を得て食堂に入っているので文句を言われることはない。
I田は私がヤクザであることを知っている。
私は、これまでI田の嫌がらせで担当抗弁となり、
取り調べに上げられたという場面を何度か見てきた。
遂に私まで仕掛けてきたかと思った。
私は黙っていた。
するとI田は、
「お前口が無いんか」
と尚も挑発してくる。ヤマを返すことは簡単なことだ。
看守に文句を言い返すことを、ヤマを返すと言う。
ここでヤマを返すと今まで辛抱してきたことがすべて、
水の泡になってしまう。I田が、
「何とか言えチンピラ」
と言ってはいけない一言を口にした。
この一言のおかげで私は公務執行妨害と傷害という罪を増やしてしまった。
私はI田に歩み寄り顔を近づけて、
「おとなしく務めようと思うとるんですわ。
寝てる子、起こさんようにしたって下さい」
と静かに言った。

I田は、
「何を言うとんねん。このチンピラが」
と禁句をまた言いやがった。I田はヤクザの怒るポイントをよく心得ている。
「意地かかりまっせ」
とI田に警告した。I田は
「何か文句あるのか」
と更に挑発してくる。
しかし声は先ほどよりも小さい。
何か文句あるのかという言葉の後にチンピラと
付け加えたならば殴ろうと思っていた。
挑発の上手い看守だ。
これ以上何か言うと担当抗弁で上げるつもりだ。
頭を切り変えた。
「よう、覚えときますわ。おやっさんも、よう、覚えといておくんなはれ」
と言い食堂を出た。
あれから3年が経過していた。
話し終えた時、N本の顔は不安な表情から安堵の表情に変わっていた。
正直なところ別にどうでもよかったが、I田にお灸を据えてやろうと思い、
許せないと言った。何かおもしろそうな展開になる予感がした。
「ワシらの世界は、やられたら、やり返す、
当然ですやろ。極道と分かったうえでちょっかい出したんやから
、I田と会うことがあったら言うたって下さいもう少したら腹をくくっとけ」
とN本に伝言を頼んだ。
N本は、
「I田は俺の後輩や許したってくれ。たのむわ」
と言ってきた。おもしろい展開だ。
刑務所でN本より若い職員はみんな後輩だ。
そんなことは言わなくても分かっている。
もっと怒ればおもしろそうだ。
「オヤジ、この物事にはヤクザとしての意地がかかっとるんですわ。
許す訳にはいきません」
とN本の目を見据えてドスを効かせた声で
必ず成し遂げなければいけない物事であるという説明をする。
刑務所にヤクザは大勢いる。
ヤクザとして一本筋の通った者は務め方が違う。
事故をつけたりせずに配役された工場で静かに務め、
静かに出ていく。私もそれに習った。
すると看守の見る目も自ずと違ってくる。言葉も重みを増す。
もっと怒ればもっと楽しくなりそうな予感がする。
「オヤジも、どこに首をつっ込んでくるんですか。これはワシとI田の問題でっせ」
と半分切れかかったふりをする。
「わ、わかった」
とN本は引き下がる。3年間無事故で務めていることで言葉に重みを増す。
次の日N本が、
「昨日の件やけど…」
と控えめな態度で話しかけてくる。
「刑務所で起こったことは刑務所で解決するべきだと思うんやけど」
と話を蒸し返す。おもしろいことはなかなか止められない。
「オヤジも、しつこいですね」
と言う。N本は、
「何とか俺の顔を立てて、何とか頼むわ」
と言ってくる。私は、
「オヤジの顔だからといって許せる事と許せない事があります。
自分で蒔いた種ではないのでしょうか」
と言う。
N本はI田と話をして
「俺にまかせとけ」
と後輩の前でいい格好をしているに違いないと思った。
案の定N本は、
「I田に芹沢のことを話すとI田も覚えていて、
謝りたいと言ってきているんやけど、一度、話をしたってくれへんか」
と言ってきた。お灸だ…。ライターも忘れずに持って来いと思った。
日頃、N本には山ほど嫌がらせを受けている。
今回はこちらの番だ。またとないチャンスだ。
「嫌です。刑務所では立場も違いますから、娑婆で嫌ちゅう程、話をしたります」
と言った。今日はいつもよりぐっすりと眠れるような気がした。
翌日、N本は
「実は事務所で非公式に話をしたいと言うてるんやけど頼むわ。この通りや」
と言って、倉庫で帽子を脱ぐ。
少し間を取り考えているふりをする。ウーンと唸る。
「頼みます」
と言って両手を合わせる。受刑者に敬語かと驚く。
安目を売ることが平気だ。もう一度ウーンと唸ってから
「自分の思うことを通そうとする心のことを意地と言うんです。
意地がかかると本人に対して僕は警告を発しました。」
と言葉の意味を交え経緯を説明してやった。
N本は
「そこんとこ頼むわ」
と揉み手に変えて願ってきた。願箋を書けと言いたかった。
「因果応報という言葉をご存知ですよね、私たちは面(ツラ)で飯を食ってるんですよ」
と慇懃な言い方をしてやった。
「俺とおまえの仲やないか」
とN本は言う。本をただせば地元の先輩と後輩というだけで、
顔を合わせたこともなければ話をしたこともない。
ここに来て初めてそのような関係であると
発覚しただけでよくここまで言えるものだと感心した。
天を仰ぐように倉庫の天井を15秒ほど見つめた。
ふうーと大きく深呼吸をした。そして
「わかりました」
と返事をした。N本は満面の笑みを浮かべ
「ありがとう」
と言った。心の中で“ございます”が抜けてるやろと思った

二日後に事務所に呼ばれて行くとI田が居た。
ニコニコと満面の笑みを浮かべて、
「芹沢、久ぶりだな」
と言ってきた。私は、
「お前分かっとんのか。娑婆でする話を前倒しして話しとんのやぞ」
と言うと、I田は、
「久しぶりです」
と敬語に変わった。私は、
「あのなぁ、そうゆうことを言うとんのと違うんや。
お前は娑婆でも帽子を被っとんのか」
と言った。
「すいません、すいません。」
と謝りながらI田は帽子を取った。
I田はおどおどして落ち着きがない。
「何か言うことないんか」
と少し大きな声を出してやった。I田はあわてて、
「あの、あの、ひ、非公式なので小さな声で、お、お願いします」
と当時の挑発してきた時とは大違いで可哀想になってきた。
緊張して何をしゃべったらいいのかわからないようだ。
「N本から聞いとると思うけど、どない思とるねん」
と聞いてやった。I田は言葉が終るか終らないうちに頭を机に引っ付けて
「すいませんでした」
と謝ってきた。その後も、
「すいません、すいません」
と何度も頭を下げるので私は、
「男やから頭は一回下げたらそれでええ」
と言ってやった。そして、
「今度からは間違えたらあかんぞ」
と言ってやった。
I田は無言でうなずく。
「ほな、工場に帰るわ」
と言うとI田は、
「工場まで送ります」
と言う。
工場までの帰り道に、
「あんたも、みんなに好かれる看守にならんとあかんぞ」
と言うと、I田はウンウンと首を縦に振る。
言葉が出ないほど安堵したようだ。泣いているということが分かったので
顔を見ないようにした。エースコックは可愛い看守だった。
極道は極道らしく一本、筋を通して務めることで僥倖が待ち受けている場合がある。
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