昨年は短い運動時間の中、バトンを渡す練習、
タイヤ転がしの練習、障害物競走の練習までした。
運動会までの3ヶ月間、運動時間はすべて運動会の練習に充てた。
結果、運動会において悲願の優勝を果たすことができた。
工場全員が一丸となり一つの目標を成し遂げた時の喜びは何物にも代えがたい。

それから1年が経過しようとしていた。
もうすぐ運動会だというのに出場選手が決まらない。
運動会の練習などする者は1人もいない。
理由は、去年優勝した際に褒賞としてジュースが振る舞われたのだが、
N本はこのジュースを断った。
同僚から「受刑者をジュースで釣って」
と揶揄されたことに対して、
事実無根であるということの証明に、
ジュースを断った。そのことを受刑者の1人に
ポロっとしゃべった。
あれだけ熱心に練習を重ねてきた受刑者を、
労ってやる気持ちなど、これっぽっちもない。
自分の格好や体栽ばかりだ。
処遇部長や統括には、そこまでするかというほど、胡麻をする。
上司の前では仕事熱心な看守をアピールする。
そのような所を見抜かれていないと思っているから、N本は、
「処遇部長、何か俺のこと嫌っているみたいやわ」
と言う。見え透いた行動が嫌われる原因ということに気が付かない。
N本は受刑者たちにリレーに出ないかと
声をかけるが誰も出ない、辞退続出だ。
全員やる気がないのだ。
受刑者たちはジュースが欲しかったのではない。
N本の薄情さに嫌気がさしたのだ、私も聞いて呆れた。
受刑者たちはN本のいい格好のための道具でしかなかったことをしみじみと
感じ取った、またメッキが1枚剥がれ落ちた。
刑務官の中には受刑者と共に笑い、
共に泣くという熱い刑務官の方もおられる。
爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい。
N本がどうにかしてほしいと泣きついてきた…。
N本は自分で墓穴を掘ってしまった。
完全に受刑者からの信用を無くしている。
信用は簡単になくすことが出来るが取り戻すことは容易ではない。
このままでは工場として恥をかく
私はN本に何とか格好だけはつけてやる、
だが運動会のことには一切、口を出すなという条件をつけた。
私には、ある考えがあった。

私たちの工場は前年度優勝しているので、
受刑者の代表として選手宣誓をしなければならない。

N本から依頼されたが、辞退してやった。
しかし私だけのことなので最後は引き受けてやった。
運動会の前日に予行練習が行われた。
この時にちょっと待ったがかかった。
次席が最後の部分でフルネームはダメだという。
個人が特定されてしまうので個人情報保護法に違反するという。
N本にそのことを言うと、
個人情報保護法は刑務所で当然遵守されるべきだという。
個人情報漏洩の元凶であるN本に言われるとは思ってはいなかった。
何ごとも問題がないかのように言い放ったことがどうしても気に入らない。
「今、何とおっしゃいました」
と慇懃な尋ね方をしてやった。N本は私を呼ぶ時に
「カモメ」
と呼ぶ。
これはワシにかかったらヤクザの親分でも
呼び捨てにできるのだということを受刑者たちに顕示するためだ。
刑務所の中だから通用する、娑婆で会った時に
「カモメ」などと呼び捨てにしたならば、
殴ってやるのだが…
常日頃その点については特段の注意を払って、
まるで個人情報保護法に違反したことが無いかのような言いぷりだ。
こうなるとフルネームのことなどどうでもよくなる。
どうせ本番で勢い余って言っちゃったと、言えばそれで終わる
「えっ個人情報の漏洩やろ」
と何も問題が無いかのように言う
「ほんならワシのこと、いつも何て呼んどるのですか!」
これを個人情報の漏洩と言わずに何と言うか。
少し怒り気味に言ってやった。するとN本は、
「親しみを込めて呼んでるだけやんか」
と調子のいいことを言う。私は
「送付簿や願箋、その他個人情報が記載されているものは、
もう工場長の方で書くようにして下さい」
と言ってやった。
N本はそれとこれとは話は別だと
都合のいいことを言うが、
個人情報が漏洩していることに変わりない。N本は私に、
「最近、反抗的だな」
と言った。言ってはいけない一言を言ってしまった…
このような、迂闊な言葉を待っていた。
工場をまとめる者としての義務を果たす時が来た。
N本は定期的に叱っておかないと、すぐに調子に乗る癖がある。
昨年のジュース事件で工場が不穏な空気に包まれている。
全員で運動会をボイコットする兆しが見えた、
中にはN本に飛ぶ(殴って上がる)という者さえ現れた。
ここはN本を撃沈して受刑者の憂さを晴らして、
なんとか運動会に出場するメンバーを確保しなければと思い、
N本を食堂に呼んだ。
受刑者は作業をしているが目は早い。
私がN本を連れ食堂に入ったことを受刑者の大半は見ている。
「さっき何んて言うたんや」
と少し大きめの声を出す。N本は何のことか分かっていない。
「さっき反抗的って言ったやろ、
どういう意味で言うたんか言うてみぃ」
と難癖をつける。N本は、
「いや、それは…」
と、戸惑う。
「ワシらは管理されることはあっても、支配されることはない」
「いや、あの、その…」
「ええか、反抗的というのは支配下にある、
目下の者が目上の者に対して、
批判を加えて従わないことを言うんや」
N本を詰めることぐらいは朝飯前だ。
「反抗的という言葉はワシらのことを目下やと思っているから
出る言葉やろワシらにも人権はある」
と言うと
「そんなこと思う訳がないやろ、
ワシらは公務員やし、目下とかとんでもない」
とN本は言い訳をする。
1週間程前の出来事だが、
N本が受刑者を指導していた時に、
目上という言葉を使っていた。
刑務所では作業終了後に足洗いをする時間が設けてあり、
足洗いを終えた者で、
水虫になりかけている者や消毒をしたい者は、
工場長に申し出て線球をもらうことができる。
線球とはコットンを玉にしてオキシドールの中に浸したものだ。
これをもらう時に、三宅という受刑者がズボンの裾を捲り上げたままで、
N本に線球を申し出た。N本は、
「それが目上の者にものを頼む時の服装か」
と烈火のごとく怒りだした。
「オヤジ1週間前、三宅に何て言うて怒ってたんや、
ワシ耳おかしなったんかな?」
と少しふざけてやる。
「いや、その、あの…」N本は覚えているのか忘れているの
かはっきりしない。
「何か言うてた?」
上目づかいに聞いてくる。やはり忘れているようだ。
「三宅に目上の者に頼み事をする服装かと怒っていたやろ」
「それは…」
「それは何や」
と詰める。
「もう虐めんといてや」
と甘えてくる。いつも受刑者を虐めているのは誰だ。
私の場合は意味があってこうしている。
N本は口が上手い。
心にも無いことを平気で言う。
見抜かれていないと思っているから、いつまでも続ける。
「俺は常識も知らん、世間知らずや。頭も良くない」
と言う。確かにピタゴラスと言えば、
どんな恐竜だ?という程度だ。
謝り上手だと自分に酔っている、
ナルシストN本の心の中が透けて見える。
舌を出している所までまる見えだ。
これからは「カモメ」と呼ばないこと、
送付簿も自分で書くこと、
給料日にフルネームで呼びださないことなど
何点かの要求をのませた。
私のフルネームは芹沢鷗だからだ。
N本は次の日から、芹沢班長と呼ぶようになった。
これを聞いて受刑者たちの鬱憤も少しは晴れただろうか…。
工場の和を保つためには受刑者の代表として
時として工場長と対峙しなければならない時もある。
班長連中には、
「私が、誰でもよいので若い者から順番に
各種目に出場するようにと言っている」
と言えと伝えた
運動会の成績はさんざんな成績だったが、
和気藹々として楽しかった。
これでいいのだ。
