私の事件 ⑦

私は高校時代に極真空手を学び。20歳のときにはボクシングを学んだ。

サシの喧嘩では負けたことが無かった。サシとは一対一のことである。

 

ヤクザの世界でも喧嘩で飯を食ってきた部分もある。

 

今度は警官全員でかかってきた。これには流石の私でも勝てない。

好きなようにされた。

 

人命救助のタンカーに使用されているような丈夫な生地の拘束帯でぐるぐる

巻きにされて3箇所もベルトで縛り上げられた。

 

手も足も出ないとは正にこのことだ。

そのまま鎮静房に放り込まれた。

 

鎮静房の中に4人ぐらいの警官が入ってきて

手も足も出ない私を蹴り飛ばした

 

その内の一人の警官が私のそばに来て屈みこみながら

 

「どうや、まいったか」

と言った。私は腹筋を使い身体を起こし警官の肩に噛み付いた

 

「痛い、痛い」

と警官は喚き散らしたが、私は齧り付いて離さなかった。

 

これで警官に対する傷害罪が適応された。そして和田に対しては公務執行妨害罪が追加された。

 

この取調べは拘置所に送られてからも続いた。和田の写真を見せてもらった。

鼻の骨が歪んでいた。一生ものの傷跡になったに違いない。

 

名誉ある勲章を顔に刻み込んでもらえたことに感謝しろ。

後から記載するが和田は本当に悪い、とんでもない警察官だった。

 

警官に噛み付いた歯形の写真も見せてもらった。くっきりと上下の歯の形が

分かるほど噛み付いた部分が赤く腫れていた。

 

私が鎮静房に放り込まれてから暴動騒ぎは一層激しくなった。

 

「芹沢さんを出さんかい!」「バーン」

と便所の扉を開閉する音やトイレットペーパーを芯ごと便所に詰めて

水を溢れさせる者まで現れた。暴動騒ぎは朝まで続いた。

 

早朝、府警本部の刑事、山田のおやじさんが来てくれた。

 

「芹沢、どないしたんや、やってしもうたもんは仕方ないとして

お前をここから出すから暴動を止めてくれ」

と言われた、私は沈静房から出てみんなに

 

「もう心配せんでええから、静かにしろ」

と言った、暴動は収まった。

 

私はその日のうちに拘置所に送られた。

 

堺北署の所長、曰く北署始まって以来の暴動騒ぎだということを

府警本部の刑事から聞かされた。

 

このようにして私の罪は営利略取、監禁致傷、銃刀法違反、

公務執行妨害、傷害と5件の罪で起訴された。

 

裁判ではヤクザを止めないことや反省など

微塵もないということで求刑が7年もきた。

 

判決では警察官の挑発は警官が悪いとしても

有形力の行使は認められないという内容の判決文だった。

 

判決では懲役5年と言われた。

 

控訴する気にならなかったので、

そのまま大阪刑務所に移送された

 

警察官(和田)の悪事

 

私が服役して4年目頃、和田は私の母親の所に行って

 

「この度はこちらに転勤して来ました。

あの時のことですが警察からは労災をもらったのですが

雀の涙でした、どうにかしてもらえませんか」

 

と母親にたかりにきたのだ

 

面会で母から事情をきかされて驚愕するとともに怒りが爆発した。

 

すぐに工場担当の親父に言い、特別発信許可をもらって

堺北署所長宛てに手紙を出させてもらった

 

内容は時効の援用を行使するという旨と、

どのような腹積もりで家に来たのか是非

教えて頂きたいという内容だった。

 

堺北警察署の所長から丁寧な手紙を頂いた

部下のしでかしたことは大変申し訳ないことで厳重に処罰します

尊母様に於かれましては伝々と記載されていた

 

現職の警察官が集りをするか、しかも4年も経過しているというのに

 

労災は10万円ぐらいだと聞いているがそれ以上の治療費が掛かったのか

 

喧嘩は自分から売っておいて潔の悪い奴だ

 

お前の所為で懲役が1年ぐらい増した。公務執行妨害と傷害はお前の所為や

 

私の身柄はすぐに拘置所に移された。そして厳正独居という処遇になった。


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